創業は大正8年、今年で92年目を迎える当社のぷちじまんといえば、やはり伏見の歴史がらみのウンチクがあげられます。創業当初の事業は水の電気分解による酸素・水素の製造販売でしたが、これには歴史的なかかわりがあります。当時世界的に大流行していた“スペイン風邪”の治療に、医療用酸素が必要だという要請があったこと、これがまず発端でした。一方で、経済振興のために宇治川上流に作られた発電所の電力が安価に供給されることになり、何か有効利用ができないかということで、当社も酸素と水素の製造を始めたわけです。ここ伏見の中書島に工場ができたのには、そんな背景がありました。
電気分解には大型の電解設備がかかせませんでしたが、昔の技術者は自分たちで設計なども工夫したものです。工場の一隅には、その頃活躍していた船の錨とともに設備の一部が残されています(A)。当時は高圧に耐えられる反応容器として戦艦の大砲の砲身を払い下げてもらい、流用していたというエピソードもあります。今や世界に通じる当社独自の水素化技術も、ルーツはこんなところにあったのです。また伏見の水で事業を起こした歴史にふさわしく、社章にはふたつのHとOの文字がかたどられています。
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伏見といえばお城もありますが、京都工場のある葭島や中書島という地名は、宇治川の分流に囲まれたその昔の風景を偲ばせるものです。水運のターミナルとしての伏見の役割は大きく、淀川を上ってきた三十石船からここで十石船に中継し、高瀬川で京へ往来しました。工場は宇治川に面していて、硬化油から石けんや油脂と事業を拡大していくうえでは、重要なロケーションでした。当時の古い写真には、そうした船や、昔の治水事業でできた閘門が写っています。役目を終えた閘門の姿は、今も工場から眺めることができます(B)。
あとは、水に恵まれた伏見には銘酒もたくさんあります。日本初の路面電車だった京都・伏見線はこの中書島で折り返し運転をしていましたが、その近くに、歴史上名高い寺田屋(C)もあります。大河ドラマで注目を集めた坂本龍馬ゆかりの船宿ですが、ここを定宿としていた社員もいたんですよ。“新日本”のありかたを気取ったかどうかは、わかりませんが…。 (技術本部環境安全品質保証部長 藤谷貫剛さん・秘書室長 北村英之さん・総務部 西川博基さん 談)
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