「価値の共有」を目指すコミュニケーションで
「信頼」を築く
〜化学物質のリスク情報を共有するコミュニケーションのあり方〜
化学物質の安全性確認は科学的なリスク評価によって行なわれ、化学製品は正しい使用方法を守ることで安全が確保されるように設計されています。
一方で、化学物質への漠然とした不安を抱えている人もいます。化学製品のメーカーや業界は人々の“不安”にどのように対応すべきなのでしょうか?
心理学者で、リスク認知やリスクコミュニケーションにおける実践的な研究で著名な中谷内 一也さんにお話をうかがいました。
同志社大学 心理学部 教授
中谷内(なかやち) 一也 さん
社会心理学、リスク認知と信頼の問題が専門領域。現代社会のさまざまなリスクから生じる不安を調査し、適切に対処するための心理学を研究。近著『信頼学の教室(講談社現代新書)』では信頼とは何か・失った信頼をどのように取り戻すのかについて詳しく解説されています。
●科学的なデータを基に「安全ですよ」と説明しても不安だという人がいます。人はなぜ不安な気持ちになるのでしょうか?
そもそも人が安全を求めるのは不安だからです。つまり不安が原動力となって安全が実現するわけで、心の本質的な部分で「安全」と「安心」は相反する面があるのです。この世に“ゼロリスク”の物が無いのと同じで“ゼロ不安”を達成することはできません。しかし化学製品への不安を少しでも減らしたいのなら、人の心と丁寧に向き合う必要があります。
私はリスク認知やリスクコミュニケーション(以下リスコミと略記)について研究しています。一般の人が化学物質をどれだけ怖がっているのかわかる調査データがあるので紹介しましょう。
〔1〕のグラフは、51項目のハザード(危険因子)に対し、日本の一般的な人がどれくらい不安を感じるのか調べた結果をまとめたものです。不安が高かった項目を左から順に並べました(2008年基準)。
洗剤類は「家庭内化学物質(B)」の項目に含まれ、相対的に右寄りの位置なので人々の不安は低いほうだと言えます。
●同じ項目でも年ごとに不安の程度が変化していますね
この調査は東日本大震災の前後に実施していて、震災1年後の2012年調査では「原発事故」「地震」「年金問題」への不安が上昇し、その代わりに他のハザードへの不安が低下しました。これは人間の不安の感情には総量があり、大きな災害や事件が起きると他の不安は低下するという仮説を裏付けています。裏を返せば、平和で事件が少ない年には、洗剤類などの身近な製品への不安が高まる可能性もあるということです。
また、「化学食品添加物(A)」と「天然食品添加物(C)」を見比べてみてください。人は「化学」という言葉によってこれほど不安を高めてしまうことがよくわかると思います。
●天然物にもリスクはあるのに圧倒的に安心するわけですか…
人が自然物を肯定的に捉えるのは、「夕焼けが綺麗だな」と思うのと同じようなものです。ただし「家庭内化学物質」に関して言うと、製品の広告などで「天然・自然」の良いイメージを積極的に打ち出していますよね? それが「自然〈肯定的〉・人工〈否定的〉」の図式を強化して、自分たちの首を自分たちでしめている部分もあると思いますよ。
●では化学物質の安全・安心とは少し違う問題ですが、近年、多くの人が柔軟剤の香りを楽しむ一方で、同じ香りを不快だと訴える人がいます。これはリスク認知の観点からどう思われますか?
リスク認知の研究では、人が心理的に“リスクが高い・とても受け入れられない”と判断するときは、“恐ろしさ因子”と“未知性因子”の2つが影響していると考えます〔2〕。
たとえば、原子炉事故や核兵器に不安を感じるのは“恐ろしさ因子”の影響であり、薬品や化学製品に不安を感じるのは主に“未知性因子”の影響だと分析することができます。
“恐ろしさ因子”の一つに、「非自発的にさらされる」という要素があって、同じリスクでも自発的に接した場合はリスクが低いと感じ、非自発的に接した場合はリスクが高いと感じます。このため他人からの香りに対して人は“リスクが高い”と心理的に感じることが考えられます。また、科学的な根拠がなかったとしても「嫌だ」という感情があれば、「私も」と共感する人も出てくると思います。
●人の不安を減らすには、どんなコミュニケーションが有効ですか?
私は、人々の「信頼」を高めていくことが「安心」につながると考えています。外部依存の進んだ社会では、自分にリスクが降りかかる可能性があっても他人を「信頼」して事を任せる必要が出てくるので、相手を信頼できなければ安心することもできないからです。
仮に、リスコミを進めるなかで「100%安全でないとはけしからん!」と言って譲らない人がいたとします。その人の信念は、こちらが何を言っても変わりませんし、変えようとしてもいけません。相手が誰であろうと、こちらの考え方へ誘導しようという意図が見えた瞬間に反発したくなりますし、その時点でリスコミではなく「説得的コミュニケーション」になってしまいます。一番大事なのは、そうしたやりとりを周りで見ている一般の人たちにどんな情報が伝わって、結果的に「信頼」してもらえるかどうかなのです。
「信頼」を得る条件は、「能力認知」と「意図・動機付け認知(人柄のようなもの)」だと伝統的に考えられてきました。でも私が強調したいのは「価値共有認知」です。
もしも非常に能力の高い人があなたの望まない価値を実現しようと一生懸命頑張っていたら、その人を信頼しますか? むしろやっかいですよね。だから人と人との信頼関係が成り立つには「価値の共有」が大事となります。
石鹸や洗剤は、清潔で感染症の少ない世の中のために作られていると思いますから、科学的な安全性のほかにそうした根っこの部分もきちんと伝えると、多くの人と「価値の共有」ができる可能性があります。その点も意識してリスクコミュニケーションを模索していくとよいのではないでしょうか。