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せっけんメモシート(2)
「石鹸」の製造と需要

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●石鹸製造は明治とともに |
固形のいわゆる石鹸が、わが国でつくられるようになったのは、明治3(1870)年の京都舎密局(官立化学研究所)が最初です。
つまり、政府のきも入り官主導ではじまったのですが、このときの石鹸たるや牛脂とナスの灰汁を飴状にしたもの、ハマグリの殻に入れて売ったといいますから、まるで“ガマの油”みたいです。
その2年後には、横浜の「堤礒右衛門石鹸」が登場し、これが民間の石鹸製造の最初で、棒状の洗濯石鹸でした。その数年後には「HONEY SOAP」や「TOILET SOAP」といったラベルで化粧箱に収まったものが発売されました。こうして明治のはじめには、たくさんの石鹸製造業が起業され、いまにその流れをルーツとする会社もいくつかあります。
いわば、文明開化、産業振興のシンボルのひとつでもあり、化学工業の出発点が、ほかならぬ石鹸製造だったのです。
それにしても、“南蛮渡来”でシャボンがはじめて日本に入ってきたのは、戦国時代の天文年間といわれますから、それからなんと300年も経ってから、やっと日本人は自分で石鹸をつくって広く使うようになった、ということになります。
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●石鹸を使う習慣も定着 |
こうして、普通の人が誰でも安価に石鹸を購入し、洗顔・入浴・洗濯に使うことができるようになったのですが、その背景にはもうひとつ重要な事実がありました。
“富国強兵”をめざした明治政府は、軍隊内の保健衛生のため石鹸の製造と使用にも意を払いました。それが多くの人の間に石鹸を使う習慣を広め、定着させることにもなったというのです。実際に、軍隊でどの程度石鹸がつくられたのか定かではありませんが、化学的な石鹸の製造法を説き、脂肪酸やグリセリンについてはじめて外来知識を紹介記述した軍の文献も残っています。
そのほか、造船所で船台から船を滑らせ進水させるために自家製造したり、大蔵省印刷局でも官公需用の石鹸をつくったりして、石鹸製造は急速に拡大します。
それに関連して副生品のグリセリンが火薬原料として重視され、さらにカ性ソーダ・硬化油・油脂工業へ発展していくことになりました。石鹸製造は、化学工業の広がりの素となったのです。
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●贈答品としての歴史も古い |
「御進物として…」という石鹸の新聞広告も昭和5年には登場しており、かなり早くから贈答品としての需要もあったようです。“洗い流す”という意味もあってか、快気祝いや香典返しには、定番の地位を白砂糖(三盆白)などと並んで占めるに至りました。
大戦後の日本の復興過程でも、石鹸は重要生活物資のひとつとして、比較的はやくから立ち直り製造を再開します。統制経済のなかでの苦労を経ながら、業界としてのまとまりと歩みもはじまり、やがて合成洗剤という一部石鹸と競合する商品も生まれます。
石鹸は、平和で豊かな日常生活に欠かせない日用品となっていき、法人の贈答需要増加ともあいまって、昭和34(1959)年には全体で38万トンという生産量のピークをつくります。
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