------ わたしどもでもリスクコミュニケーションをどう進めていくのがよいか、いろいろと苦心しているところですが、“PRTRの指定物質は有害なんだから使ってはいけないんだ、使わなければいいんだ” という主張をし、そういった考え方を広めようとしている人も少なからずあるのです。
なるほどね。そんな主張は正しくありませんね。
化管法では、確かに第一種指定化学物質として354の化学物質を指定し、第二種指定化学物質として81 物質をあげています。第一種と第二種の違いは、「環境中に広く継続的に存在する」か否かの違いです。
けれども、それが選ばれた根拠を考えれば、指定されていなければ安全だ、ということではまったくないわけです。
化管法は、人の健康や生態系の生物に有害なおそれがあるなどの性状を有する化学物質を管理するのが目的で、“有害な化学物質を禁止する法律” ではありません。
それが有害か否かは、トータルで考えないといけない。だから指定物質を排除するとか、指定されていない物質に代替することがいいことだ、求められているのだ、ということではないのです。
------ ところが、一部の人々は、必ず「LASはPRTRで指定されています。だから使ってはダメなんです」というようなことを言われます。企業のほうでも、なかには「わが社ではこれだけ指定物質を減らしました」とか「当社はPRTR物質をいっさい使っておりません」というような宣伝文句で売ろうとしているところまであります。問題は、そう言わなければならないような雰囲気が一部であり、またその誤解を利用して利益を得ようとする動きが一部にあるということです。それが「天然がよくて合成は悪い」とかいった誤解をさらに拡大している、という面もあります。
それも大きな間違いですね。それと同じことが、遺伝子組み換え作物の問題についてもありますね。それと同じ発想でしょうね。
指定物質だから有害で、だからそれをほかの物質に代替せよ、というものではないですね。化学物質の環境安全性については、環境への放出量をできるだけ小さくするということが大切なんです。
「指定物質は使ってはいけない・入っていません」「天然だからいい、安心だ」という、いまCMなんかでやたらいってるのもそうですね。それは明らかに違うんですね。
そういうことになると、やはり学校教育が重要だと、つくづく思いますね。小学校くらいから、環境教育には力を注がなければならないと思います。ところが、先生方もそういう教育を受けていないので、教え方にも問題もあるのですが…。
結局のところ、その基本は科学的な理解です。人間は真っ暗な中を、なにも障害物はないから安心して走れと言われても走れません。一般にはなかなか理解できないことが、世の中だんだんと増えていきます。理解できないときには、即、拒否につながってしまうのですね。
理解すればね、そのあとでどう判断するかは個人の自由だと、ぼくはそう思っているんですよ。最低限、きちんと理解しようとする前に拒否するということはやめてくださいよということですね。理解したうえで本人の生き方や信条やなんかで拒否するという人は、それはそれでしかたがない。
だからリスクコミュニケーションというのは、決して「説得」ではないわけです。「まず情報をお互いに共有すること」なんです。「リスク」とは、危険にあう可能性です。「コミュニケーション」は、情報を共有することで、説得することでも議論してやっつけることでも、従わせることでもない。必ずしも合意が最終目的ではない。
もちろん、結果としてお互いに合意に達すれば、それはハッピーですよ。でも、最初から合意を目的にすると、それは説得になる。知識のある人が、ない人にたいして教える。これね、情報の非対称性というんです。情報のある者がないものに上からおしつける、それでは説得になってしまって、これはリスクコミュニケーションではないわけです。
化学物質についても、いろいろな考え方や意見があるのは当然としても、安全の議論と安心の感じ方が、うまくつながっていないところがあるように思えます。ただ、みんなが共通に理解しなければならないのは「ゼロリスクはありえない」ということですね。出発点として、それだけはわかってもらわなければならない。化学物質がなければ、現代の社会生活は成り立たないんですから、それと共存してうまく使うことを考えていかなければならない。それが基本です。
洗剤もこれまでの歴史的な経緯をみると、多分に情に流され感情や好き嫌いといったものに支配されてきた運動もありましたが、これからは、条理というか科学的根拠に基づいて話を進めていかないといけません。科学的に考えることを子供の頃から訓練していかなければならないでしょう。また、業界も時間はかかるけれども、こつこつやっていくしかないですよね。
これはなにも洗剤や洗剤業界だけの話ではなくて、化学物質すべてについて言えることなんですよ。
------ 最近ではCSR(企業の社会的責任)という考え方もあって、そういうなかでリスクコミュニケーションも取り入れて組み込んでいくという動きも広がっていますが…。
そうですね。それはもはやコンプライアンス=法令遵守を越えたものを要求されていることを自覚したと理解すべきなのですね。法律に従っていれば問題ない、法令が求めるのを守っていればいい、法の規制に従うというのがCSRではないと思うのです。
法令を守るというのは最小限度の義務ですからね。その一歩先のことをめざして、その上のことを要求しているのがCSRなのです。
化学物質でも、ハザード(物質固有の有害性)の小さいものをつくり、それを使う、これは大前提です。消費者としては使用基準を守るということ。そこまでは義務でありルールですから。リスクコミュニケーションというのは、その上にたった「安全と安心の掛け橋」だ、とよく言われています。「安全と安心」というのは、語呂がいいのでよく使われるけれども、つまりは客観と主観の問題で、そこをつなぐのがリスクコミュニケーションの役目になるのです。
では、安全と安心はどう違うのかということになるのですが、あえて言えば「安全というのは客観的なリスク」ということができます。これに対して、「安心というのは主観的なリスク」ということになります。
言い換えれば、安全とは科学的事実に基づいた客観的なもの、安心というのは自ら理解して納得した状態です。「安心」というのは英語でなんというのかというと、これが案外にむずかしい。英語では、これを表現する適当な言葉がないのです。
強いて言えば「センスオブセキュリティ」かということになるのですが、同様に「リスク」に相当する日本語もないのです。これは「危険」という意味ではないですからね。最近では「安全と信頼性」と言おうじゃないかという提案もあるのです。
「安心」は主観的なものなので、そのファクターはどうも科学的に評価できないところがあるから「安全と信頼性」のほうがいいというわけです。セイフティとセンスオブセキュリティ、主観と客観、そこをリスクコミュニケーションがどうつないでいけるか、ということです。
工業会では、条例や要綱のなかで反洗剤運動を行なっている自治体に、質問状を出されたそうですが、反応はどうなのですか。
------ 大方の自治体のご理解はいただけたと思うのですが、一部にはまだかたくななところがあります。
那覇市や柳川市などでも市が条例や要綱で“洗剤追放” をうたっていたのですが、わたしども工業会から質問状を出したところ、幸いご理解をいただくことができて、ただちにその条例改正や要綱廃止をされました。ところが、我孫子市などでは、いまだに“きょうからあなたもせっけん派! 我孫子市はせっけん推進のまち” というようなリーフレットをつくって市民に配っています。
そんなこともあるのですか。我孫子市は手賀沼の水質汚濁から“石鹸を使いましょう” とやっていたようですし、その発端となったのは古い昔のことになりますが、やはり滋賀県の琵琶湖でしたね。
こういう主張をする人たちは、石鹸や洗剤の使用量については、どのように考えているのでしょうかね。もし、暴露量という因子を無視するのであれば、リスクコミュニケーションは成り立ちません。
もしまだご理解いただけない自治体があるならば、「これはどういう根拠で、どういうデータでそういうことをおっしゃっているのでしょうか」と、それぞれ個別に聞いてみたらどうでしょうか。
------ 公開質問状を出す以前から、それこそコミュニケーションがなによりも大切だと、何度も話し合いを重ねてきました。そのうえで、最後は文書でなければだめだということで出したのです。わたしどもの公開質問状に対しても、「現時点では変えるつもりはありません」という府県もあります。
さらに、我孫子市の前市長からの回答文書には、「すべての研究結果が一致して合成洗剤の安全を表明するまでは」とか、「合成洗剤の安全性が確実に証明されるまで、条例は廃止しません」とまで、書かれていたのです。
ほうー、そうなんですか。
自治体も住民の声も聞かねばならない立場もありましょうが…。まさか、環境省はこんなこといってないでしょうからね。やはり、科学的な考え方というのは、案外にまだまだ普及していない、ということですね。
寺田寅彦先生のことばに、こういうのがあります。
「ものごとを怖がり過ぎたり、怖がらなさ過ぎたりすることはやさしいが、正当に怖がることはなかなかむずかしい」
正当に怖がるというのが、リスクアセスメントなんですね。100%安全ということはありえないし、また100%危ないということもない。そこが科学に基づいた考え方なのですが、学校でそういう教育をしていない。そういう勉強はしてこなかった、そのつけがこんなところにも回ってきてる、ということでしょうね。
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